津山事件

2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件


その犯人、都井睦雄が自殺現場で書き残した遺書一通と、自宅で見つかった書置き二通を原文ままに掲載。



【自殺現場にあった遺書】

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、 時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついあ あした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、は なはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病 気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情す べきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかな かった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井 倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって 貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。


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【自宅から見つかった書置き(遺書)①】

自分が此の度死するに望み一筆書き置きます。ああ思えば小学生時代は真細目な児童として先生にも可愛がられた此の僕が現在の如き運命になろうとは、僕自身夢だに思わなかったことである。
 卒業当時は若人の誰もが持つ楽しき未来の希望に胸おどらせながら社会に出立つした僕が先ず突きあたった障害は肋膜炎であった。医師は三ヶ月程にて病気全快と言ったが、はかばかしくなく二年程ぶらぶら養生したが、これが為強固なりし僕の意志にも少しゆるみが来たのであった。其の後一年程農事に労働するうち、昭和十年十九歳の春再発ときた。これがそもそも僕の運命に百八拾度の転換を来した原因だった。
 此の度の病気は以前のよりはずっと重く肺結核であろう。痰はどんどん出る、血線はまじる、床につきながらとても再起は出来ぬかも知れんと考えた。こうしたことから自棄的気分も手伝いふとした事から西田とめの奴に大きな恥辱を受けたのだった。病気の為心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ痛手を受けたのであった。それは僕も悪かった。だから僕はあやまった。両手をついて涙をだして。けれどかやつは僕を憎んだ。事々に僕につらくあたった。僕のあらゆる事について事実の無い事まで造りだしてののしった。
 僕はそれが為世間の笑われ者になった。僕の信用と言うかはた徳と言うかとにかく人に敬せられていた点はことごとく消滅した。顔をよごされてしまった。僕はそれがため此の世に生きて行くべき希望を次第に失う様になった。病気はよくなくどちらかと言えば悪くなるくらいで、どうもはかばかしくなく昔から言う通りやはり不治の病ではないかと思う様になり、西田の奴はつめたい目をむけ、かげにて人をあうごとに悪口を言うため、それが耳に入るたびに心を痛め、日夜もんもんとすること一年、其の間絶望し死んでしまおうかと思った事も度々あった。
 けれど年老いた祖母の事を思い先祖からの家の事を思う度に強く強くそして正しく生きて行かねばならぬと思いなおして居た。けれど病気は悪くなるばかりとても治らぬ様な気分になり世間の人の肺病者に対する嫌厭白眼視、とくに西田とめと言う女のつらくあたること、僕は遂にこの世に生くべき望み若人の持つすべての希望をすてた。そうして死んでしまおうと決心した時の悲しさは筆舌につくせない。僕は悲しんだ泣いた。幾日も幾日も、そうして悲しみのうちに芽生えて来たのはかやつ[ 西田とめ ]に対する呪いであった。これ程迄にかくまでに、僕を苦しめにくむべき奴にさげすむかの女にどうせ治らぬ此の身なら、いっそ身をすてて思いしらせてやろう。かやつは以前はつらかったのだが、今は何不自由なく活(くら)して居るからおごりたかぶり僕等如き病める弱きものまでにくみさげすむのだろう。にくめべにくめ、よし必ず復讎をしてかやつを此の社会から消してしまおうと思うようになった。その外に僕が死のうと考える様になった原因がある。寺川弘の妻マツ子である。彼の女と僕は以前関係したことがある(かの女は誰にでも関係すると言う様な女で僕が知っているだけでも十指をこす)。それがため病気になる以前は親しくして、僕も親族が少いからお互に助けあって行こうと言っていたが、病気に僕がなってからは心がわりしてつらくあたるばかりだ。はらがたってたまらなかったがじっとこらえた。あれほど深くしていた女でさえ、病気になったと言ったらすぐ心がわりがする。僕は人の心のつめたさをつくづく味わった。けれど之も病気になるが故にこの様なのだろう。病気さえ治ったら、あの女くらい見かえすぐらいになってやると思っていたが、病気は治るどころか悪くなるばかりに思えた。医師の診断も悪い。そうする中に一年たったある日マツ子がやってきた。僕は何時もにらみ合っていずに、少し笑顔で話してもよいがなと言ってやった。するとマツ子の奴は笑顔どころかにらみつけた上鼻笑いをし、さんざん僕の悪口を言った。故に自分もはらをたて、そう言うなら殺してやるぞとおどし気分で言った。ところがかやつは殺せるものなら殺して見ろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらんと言ってかえっていった。此の時の僕の怒り心中にえくりかえるとは此のことだろう。おのれと思って庭先に飛出したが、いかんせん弱っている僕は後が追えない。彼奴は逃げかえってしまった。僕は悲憤の涙にくれてしばし顔があがらなかった。そうして泣いたあげく、それ程迄に人をばかにするなら、ようし必ず殺してやろうと深く決心した。けれどその当時は僕は病床から少しもはなれることが出来ぬ位弱っていたから、きゃつが見くびったのも無理はなかった。一丁も歩けなかった僕だった。けれどもそれ以来とめの奴、マツ子の奴のしうちに深くうらみをいだき、その上病気の悪化なども手伝い全く自暴自棄になってしまった。その後は治ると言う考えをすててしまって養生した。それは養生したのは少しでも丈夫になってきゃつ等に復讎してやるためだった。それからは前とは考えをちがえて丈夫になる様につとめた、そうして神様に祈った、どうか身体を丈夫にして下さいましてきゃつ等を殺して下さい。きゃつらを殺しましたら其の場で命を神様にさしあげますと、全く復讎に生きる僕だった。ずいぶん無理をして起きもしまた歩きもした。ひたすらうらみにもえてどうきの高い心臓をおさえ、病気が出ていたむ胸をおさえて。ところが不思議に治るかんねんをすてたら、今迄の様な心配が無くなったせいか、少しも快方に向わなかったのが次第に良くなっていった。其の時のうれしさ、これなら西田のきゃつ等やマツ子の奴にも復讎出来ると思った。こういう考えが自分の心中にある故にか僕の動作に不審な点があったのか世間一般の人が疑惑の眼を持って見だした。親族の者も同様に時々祖母に注意するらしい。祖母が僕の動作に気をつける。僕はかくしにかくした。けれど一旦疑った世間の目はつめたい。俄に僕を憎み出した。それにつれて僕の感情も変ってとめの奴やマツ子ばかりでなく殺意を感じだしたのは多数の人にであった。しかしその間にも以前小学校時代先生皆の人に可愛がられて幸福に活して居た当時を思い起こしてなつかしい時もあった。そう言う時には小さい感情にとらわれず、人に対するにくしみをすてて真細目なりし以前の様な僕になろうかと考えた事もあった。ああからださえ丈夫であったらこんな心にもならぬにとたんそくしたこともあった。けれど世間の人はぎわくそしてにくみへと次第につのっていった。僕もそれを見またかんじる時、よい方にたちかえると言うような考えを棄却していった。
 そうして心をいよいよきめると、殺人に必要(この頃が昭和十二年の始め頃だったのだろう)(此の頃にはからだは大分丈夫になってきていた)な道具を準備した。農工銀行より金を借用し鉄砲を買い猟銃免許を受けて火薬を買った。そうして銃が悪いので又金を個人借用して新品を神戸より買った。そうして刀を買い短刀を求めた。ようやくして大部分の品をととのえた。之までととのえるにも色々と苦心した。人に知られてはいけない、親族や祖母、姉等に知られてはいけない。そうして極力ひ密を守ったが、マツ子の奴はこれを感づき自分が殺されると思ったのか、子供をつれて津山の方に逃げてしまった。こうしたことが原因になったのか、世間の人も色々とうわさする様になったので、自分は評判は高くなって警察署に知られてはすべてが水のあわとなるから、なるべく早く決行すべきだと考えて居たやさき、ふとしたことから祖母のおそれるところとなり、姉は一宮の方に嫁(い)っとるので少しも知らなかったが、祖母が気附いたらしい。親族にはかったのだろう、一同の密告を受け其のすじの手入れをくらい、すべてのものをあげられてしまった。その時の僕の失意落たん実際何とも言えない。火薬は勿論のこと雷管一つも無いように、散弾の類まで全部とられてしまった。僕は泣いた。かほどまで苦心して準備をし今一歩で目的に向えるものをと。
 けれども考えようではこの一度手入れを受けた事もよかったのかも知れん。その後は世間の人はどうか知らんが、祖母を始め親族の者は安心したようである。僕はまたすぐ活動をかいしした。加茂駐在所にて説論を受けてかえると、そのあくる朝すぐ北田勇一氏を訪れ、金四円の札にてマーヅ火薬一ヶ、雷管附ケース百ヶをば津山石田鉄砲店より買って来てもらった。銃も大阪に行き買った。刀は桑原加藤歯科より買い、短刀を神戸より買った。之までの準備はごくひみつにひみつを重ねてしたのだからおそらく誰も知るまい。之で愈々西田とめ其の他うらみかさなる奴等に復讎が出来るのだ。こんな愉快なことはない。どうせ命はすててかかるのだ。けれどマツ子の奴一家が逃げたのは実際残念だ。きゃつは僕が一度手入れをくうや家に一旦かえり、家具少々を持って一家全部京都か東京の方面に逃げていってしまった。きゃつらをほかいて死ぬるのは情けないけれどしかたがない。自分としては外に何も思い残すことはないが、くれぐれもマツ子の奴等を残すことは情けない。
 けれど考えて見れば小さい人間の感情から一人でも殺人をすると言うことは非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ。また僕の二歳の時に死別した父母様に対しても先祖代々の家をつぶすとは甚だすまぬわけである。此の点めいどとやらへ行ったら深くおわびする考えである。またたった一人の姉さんに何も言わずにこのまま死するのも心残りの様ではあるがさとられてはいけぬから会わずに死のう。つまらぬ弟を持ったとあきらめてもらうよりしかたがない。ああ思えば不幸なる僕の生がいではあった。実際体なりと丈夫にあったらこんなことにもならなかったのに、もしも生まれかわれるものなればこんどは丈夫な丈夫なものに生れてきたい考えだ。ほんとうに病弱なのにはこりごりした。僕の家のこと姉のこと等を考えぬではないけれど、どうせこのまま活していたら肺病で自滅するより外はない。そうなると無念の涙を飲んだまま僕は死なねばならぬ。とめ等の奴は手をたたいてよろこぶべきだろう。そうなったら僕は浮ばれぬ。決して僕のうらみはそうなまやさしいものではないのである。
 右が僕のざんげと言うかこうなった動機である。
 五月十八日 記之
 (早く決行せぬと身体の病気の為弱るばかりである)
 僕が此の書物(かきもの)を残すのは自分が精神異常者ではなくて前持って覚悟の死であることを世の人に見てもらいたいためである。不治と思える病気を持っているものであるが近隣の圧迫冷酷に対しまたこの様に女とのいきさつもありして復讎のために死するのである。少しのことならいかにしいたげられてもこう心持ちを悪い方にかえぬけれど長年月の間ぎゃくたいされたこの僕の心はとても持ちかえることは出来ない。まして病気も治らぬのに、どうして真細目になれよう、またなったとてどうなるものか。
 寺川マツ子の奴は金を取って関係しておきながらそれと感づき逃げてしまった。あいつらを生かして居いて僕だけ死ぬのは残念だがしかたがない。



【自宅から見つかった書置き(遺書)②】

非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき溌溂と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しく此の世を去って行きます。
 姉上様何事も少しも御話しせず死んで行く睦雄、何卒御許し下さい。自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るに取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日の様に泣いた。泣き悲しんで絶望の果僕は世の中を呪い病気を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。
 僕は遂にかほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讎をしてやろうと思う様になった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか。それ以後の僕は全く復讎に生きとると言っても差支えない。そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日までに至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讎を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺しのきょうだいと世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない、どうか姉さん御ゆるしの程を。
 僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえて居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれども僕は出来れば父母のそばにゆきたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険がニつ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですが、もらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。
 ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま活していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みをはらすべきです。復讎々々すべきです。では取急ぎ右死するに望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんはおどろかれる事でしょう。すみませんがどうかおゆるし下さい。
 こう言うことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたありません。兄さんにもよろしく。
 五月十八日 記之
 おなじ死んでもこれが戦死、国家のための戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるでしょう。
(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)